サトルエネルギー学会誌
真言密教の瞑想と加持祈祷(かじきとう)の世界
真言宗 観蔵院住職 和田 仙心
NFSHでの講演を機にホリスティックな医療が常識となり、さまざまな代替医療が進んでいるイギリスには、NFSH(National
Federation of Spiritual Healers in GREAT BRITAIN 英国スピリチュアルヒーラーズ連名)という団体があります。わたしもその会員になっています。
1998年9月18〜20日、NFSHコンファレンスが3日間にわたり開催され、わたしはそのゲスト講師として密教のヒーリング(加持)について話をさせていただきました。
「真言僧は、難しい説法などするより、加持祈祷に専心すればよい。それが生きた説法になる」
話下手なわたしは常々そう思い加持(祈祷)に専念してきたわけですが、久しぶりに外国人に密教のヒーリングのやり方を理解してもらう良いチャンスと思って参加したのです。
久しぶりというのは、今から20年ほど前もアメリカの各都市(ニューヨーク、サンフランシスコ、ロサンゼルス、サンディエゴなど)で密教のヒーリングについてチピーチをした経験があったからです。その頃、わたしは仕事の関係でニューヨークに2年間ほど住んでおり、「Whole
Life Expo」という団体の会員になっていました。その名が示すように、サトルエネルギー学会に参加している方たちと同じ分野の人や知識人が多い団体です。
それから約10年ぶりの英語スピーチです。NFSHコンファレンスの会場は、ロンドンから車で1時間ほどのロイヤル農業大学で、イギリスだけでなくヨーロッパ各国から200人ほどの著名なヒーラーが集まっていました。わたしはその最終日に講議と阿字観瞑想・加持の実践をおこなったわけですが、さすがにヒーリング(治療)経験豊富なヒーラーの方ばかりであったせいか、下手な英語にもかかわらず、大きな反響をいただきました。
この講演では後半の30分は無言の説法のつもりで、会場全体の人に加持をおこないました。密教の加持力(Healing
power)を心と身体で感じとってもらうことに時間をかけたのです。その間、深い瞑想に入っている人だけでなく、涙ぐむ人や泣いている人も見られました。この後、希望する人のみ一列に並んでもらい、ひとり一人に加持をしました。合掌してもらった手を握り、大元帥明王を表わす梵字バンを、加持力とともに入れたのです。
このNFSHの講演を機に、真言僧も積極的に講演活動をしなければいけないという気持ちも少しは湧いてきました。その後、NFSHのトレーナーに来日してもらいヒーラー養成講座を何度か開いたり、ホテルの会場を道場とした声明法要や、靖国神社での慰霊音楽法要など主催したりしました。もちろんこうした活動は自分の信念でおこなったものですが、外に出る所用や雑用が増えて、自身の行や加持祈祷の時間が削られてしまいます。講演を勧めてくれる人もいましたが、外出があまり多くなると落ち着きません。この数年は、やはり専心祈祷をするのが真言僧の使命だと、自分に言い聞かせていたのです。
しかし、昨年の秋、サトルエネルギー学会から真言密教のヒーリングについて話をする機会をいただきました。その当日(2006年3月17日)は、200人以上の聴衆を前に、大学受験に向かう学生のような心境でした。講演のメモ書きを用意して話をはじめたのですが、あっという間に持ち時間がきてしまい、20分は当てようと思っていた瞑想の説明や加持の時間が、わずか5分ほどしかなくなってしまったのです。わたしとしては冷や汗もので、不満足な結果でした。これにはまいった!なのに、演壇を降りてから、「感動しました」と多くの方からお声をかけていただき、その後の交流パーティ会場でも、いろいろと嬉しい感想を頂戴いたしました。嬉しい限りですが、あのとき20分の加持(ヒーリング)ができていたら、初期段階の軽い病気の人なら、その場で治った方も何人かおられたかもしれません。
五輪塔と六大のこと
サトルエネルギー学会での講演で、五輪塔と六大のことをお話しましたので、先ず、五輪塔と六大について述べておきます。
真言密教では、梵字や法具、マンダラにしろ、なんでも象徴的に表現しますが、五輪塔に書かれている梵字は、下からア・バ・ラ・カ・キャと読み、すなわち地・水・火・風・空を象わしています。五輪塔を人間の心身にたとえると、「地」は骨や筋肉、「水」は血液やリンパ液、「火」は体温や内臓、「風」は神経伝達物質、「空」は微量ホルモンや酵素、といったところでしょうか。
中国の五行思想では「木・火・土・金・水」といい、「火」は心臓や小腸、「土」は胃や脾臓といったように、具体的な内臓器官と対応させています。漢方の治療はこの五行の相克・循環と経絡(気の流れ)とを関連づけて治療をほどこすようです。西洋医学のように、臓器を部品扱いにしないで、木・火・土・金・水の有機的な関連から治療するわけです。
密教の教える五大は、この五行思想と似ていますが異なります。地・水・火・風・空はあくまでも象徴なのです。「地」を骨に、「水」を血液に例えることはできるけれど、骨そのもの、血液そのものではないわけです。地・水・火・風・空といった五大の性質が”縁”を成して(相互作用して)、はじめて物質の形をつくるということです。
言い換えると、人体は地・水・火・風・空の原理がはたらいて成り立つが、骨という組織にも地・水・火・風・空の原理があり、心臓にも腎臓にも肝臓にも同じように地・水・火・風・空の原理がある。人体という全体にも、骨や臓器、小さな細胞のそれぞれに同じ原理がはたらいている、というわけです。
現代科学は遺伝子操作技術を開発しましたが、密教的に言うならば、生命体にこの五大の原理があればこそ可能となったわけです。しかし五大だけでは生きた生命にはならない。それを統一するのが「識」、梵字では「ウン」と呼びます。識とは、魂とか心、意識と解釈したらよいでしょう。現代科学技術は「五大」をいじることでクローン羊や牛をつくることはできても、この「識」まで創造できません。
五輪塔にはこの「識」が記されていませんが、真言僧が塔婆の裏側に梵字を書くときは、識を象(あら)わす「ウン」を記します。五大を貫いているのが「識」であり、その統一によってはじめて生命は生命たりうるということです。
繰り返しますが、真言密教は、あらわるモノや観念を象徴(カタチや言葉、色など)で表現します。大宇宙生命の中心佛を「大日如来」と呼び、梵字では「ア」で象わします。大日如来は生命の根源であり、すべての生命は六大の縁(因果因縁)によってそこにつながっている、ということになるのです。
大日如来は、ユダヤ教やキリスト教がいうところの創造主ではありません。生命はあくまでも六大の縁(宇宙真理のはたらき)によって誕生し、六大の縁によって時がくれば死に至る(宇宙の根源に還る)というのが密教の教えです。その意味で、生きとし生けるものすべては大日如来の表れである、と言えるわけです。
密教では、大日如来と自分とが一体となる境地を、「我に大日如来が入り、我が大日如来に入る」という意味で「入我我入」と表現します。自分の生命の根源を深く思い致せば、大日如来そのものなのです。
欧米人のヒーラーにも理解された「阿字観瞑想」
真言密教の瞑想法のひとつに「阿字観瞑想」というものがあり、これはまさに自らが大日如来の境地となる「入我我入」の修法です。
わたしはNFSHコンファレンスで講演したとき、阿字観瞑想の話をしてから加持をしました。ヨーロッパのヒーラーたちのほとんどはクリスチャンですから、密教とは神観念が根本的に異なりますが、阿字観の説明をすると、目を輝かせて聞いてくれました。真言行者が使う「阿字観瞑想次第」そのままではなく、瞑想のプロセスを、スライド映写機を使いながらの簡略な説明でしたが、水が岩に染み通るように理解してくれたようです。参考までに、そのときの英文の内容を日本語で示しておきます。
- 心の中に梵字の「ア」を 観想してください。
- その「ア」字が宝石・金・銀・瑪瑙(めのう)・珊瑚・瑠璃(るり)になってキラキラと輝いている世界を観想してください。
- その上に、七色の宝石で飾られた大きな宮殿をえがいてください。
- その宮殿の中に大きなマンダラが見えます。
- そのマンダラの上に梵字の「ア」が浮かんできます。
- 「ア」字が月輪になって輝いています。満月のようです。
- 満月の中に梵字の 「キリーク」が見えて来ます。
- 「キリーク」がレンゲの花に変わっていきます。
- レンゲの花の真ん中に梵字の「ベイ」 が浮かんできます。
- 「ベイ」の字が薬草とか、フラワーエッセンスの入った瓶に変わっていきます。
- その薬壷が薬師如来の姿になっていくのを観想してください。
- すでにあなた自身が薬師如来になっています。平安と調和の世界にあって、あなたは美しい光を放ち、その光があなたをとりまいています。
今、あなたの意識は高められ人を癒すエネルギーに同調しています。人が本来あるべき完全な状態になるように手をかそうとして、ここに来ている菩薩から発っせられる12種類のヒーリング・エネルギーをあなたは使うことができるようになりました。日光・月光菩薩、そして12の守護神、7,000のエンジェルたちがあなたをとり囲み、あなたの癒しの仕事をたすけようとしています。
実際の「阿字観瞑想次第」には、「キリーク」や「ベイ」は出てきませんが、ヒーラーとしての経験がゆたかな人たちばかりということで、実践的な瞑想法をお伝えしたわけです。
実際に「阿字観瞑想法次第」で修法する場合、大日如来の象徴である掛軸の「ア」字を前に座り、禅定に入り、自身と本尊(ア)が不二一体となるように修錬します。
「心中ニ白色円明ノ月輪アリ。月輪ノ中ニ蓮華アリ。蓮華の上にア字アリ」
このような観想をおこないながら、本尊と一体となった自身が宇宙大に広がっていく(広観(こうかん))。虚空いっぱいに意識を広げて、無限大になっていく。するとやがて、蓮華も月輪も「ア」字も意識から消えて忘我の境地に至ります。意識は確かにあるのに、光のなかに溶け込んで光の粒子のようになった意識です。広大な虚空のなかに、金色のような光が満ち満ちて、その光の粒のなかに自分らしき存在を感じる、と言ってもよいでしょうか。とにかく、この辺のことは言葉で説明するのが難しいのです。
加持祈祷のときのわたし自身の意識を、客観視することはできませんが、おそらくこのような状態になっていると想われます。そうでなければ、加持力ははたらかないと思うのです。
加持祈祷の世界
アインシュタインの一般相対性理論はもとより、現代の先端物理学の理論などは説明されても、わたしはよくわかりません。ただ、今の物理学では常識といわれること、「光は粒子であると同時に波動である」というのは、正純密教の加持祈祷をおこなうわたしの経験や感覚からして理解できるのです。
分子のなかの原子、原子のなかの原子核、原子核のなかの核子というように、「もの(物質)を極限の極限までつきつめて見る」のが物理学(量子力学)という学問です。そうした現代の量子力学が極めたところによると、原子核のなかの核子を構成している基本粒子であるクオークよりさらに小さい粒子がある、というのです。その粒子を「超ひも」と呼んでいるそうですが、クオークの大きさ(長さ)が10×-17で、「超ひも」は10×-33の長さということです。
水素原子の原子核の長さ(10×-15メートル)に対して、「超ひも」はその1兆分の1のさらに100万分の1。ちなみに、目に見えない大腸菌の大きさはざっと1ミクロン(10×-6 1000分の1ミリ)ということですから、とにかく気の遠くなるような「短さ」です。
ここでわたしが何を言いたいのかというと、現代物理学のこうした知見は、結局のところ、密教の示す宇宙観に近付いているのではないかということです。要するに、想像を絶するミクロの世界は、想像を絶するマクロの世界と密接につながり、真理法則によって生成消滅を繰り返しているということです。
正純密教の道場・高野山を開いた空海は、若いときにこの大宇宙小宇宙の真理法則を密教経典に見いだしました。そして、その神髄を求めて中国にわたり、真言密教第七祖の恵果阿闍梨と出会ったその刹那に第八祖となるべき人物と認められ、法を伝授されたわけです。
空海は、著書『即身成仏義』のなかで、大宇宙小宇宙の真理法則をこのように表わしています。
六大無碍(むげ)にして常に瑜伽(ゆが)なり
四種曼荼(まんだ)各々離れず
三密加持(さんみつかじ)すれば速疾に顕(あら)る
重重帝網(じゅうじゅうたいもう)なるを即身と名づく
これをわたしなりに意訳すると、このようになります。
六大という原理からなるこの宇宙の生命・物質は常に溶け合い、はたらきあっている。
四種のマンダラが示しているように、万物の生成消滅は互いに関連して離れない。
したがって、三密(正しい作法動作・真言・観想)を統一して祈れば、その作用は互いにはたらきあって、願うことがすみやかに現実化するのだ。
帝釈天が住んでいるという宮殿に、張り巡らされた網の結び目の一つひとつに美しい宝石があり、一つひとつの宝石が、周りの宝石に映し出された光景を互いに映し込み、遠く離れていても光によってむすばれている。
我が心身がその宝石となって輝く、その境地をまさに即身成仏(大日如来と等同)という。
密教の正しい修法に基づいた加持祈祷というのは、自らが宝石となり、宇宙の真理法則(大日如来)と一体化することです。三密加持によって自ら光の粒子となり、加持の依頼者や病者に光のエネルギーを注ぐことなのです。
光速の世界には、「遠隔」という概念もありません。東京もニューヨークもロンドンも、真言行者にとっては「今ここの心中世界」にありますから、本来なら「遠隔加持」という言葉は矛盾しているわけです。むろんわたしは、「遠隔」という言葉は使いませんが、一般の人が見た目には遠隔操作のように映るのでしょう。
それから、わたしが常々言っていることは、加持祈祷のはたらきは「超能力」の力によるものではない、ということです。「六大無碍にして常に瑜伽なり 四種曼陀各々離れず」という宇宙の真理法則があるからこそ、その法則に則っておこなった加持力は発現するのです。
たとえば、余命6カ月と言われた末期ガンでも、抗ガン剤や放射線を使っていなければ、血液が新しく入れ代わる4カ月というサイクルにそって消えていく。
また、十階建のビルの場合でも、その一階の部屋に座ってビルの上空まで意識を上げて建物全体を加持すれば、神佛の光が建物を通して地球の中心まで届いてその場が結界され、清められる。そして事業繁栄の息吹きがでるように加持すれば、そうなっていく(現実化する)のです。
念力と密教の加持力との違い
三重県四日市郊外にある寺の参道入口には、『難病を治す寺 観蔵院』という小さな看板を挙げています。わたしはこの寺の住職として十数年間、多くの人たちからご依頼を受けて、正純密教の加持祈祷をおこなってきました。ガン患者をはじめさまざまな難病加持、人生の悩みごと、学業成就や事業成功の願い事など、まさに人生全般のご相談を受け、専心祈祷の日々を送ってきたわけです。
ところで、人はだれしも、自覚するかしないかは関係なく、テレパシー(遠感現象、精神感応)の潜在能力を持っています。太古の人間は厳しい自然環境のなかで自分と家族、集落を守るために闘いながら生きてきたので、テレパシー能力はかなり強かっただろうと思われます。便利な文明社会になると、そうした能力の必要性がなくなり退化したわけです。ただし、現代人のなかにも、第六感ともいえるテレパシーや念力が人一倍強い人がいます。その能力を活かし占い師とか祈祷師になったりする人もいますが、それも決して超能力というものではなく、本来人間のなかに具わったものにすぎないのです。
こうした念力と密教の加持力との違いを一言でいうならば、念力は個人的なパワーであるのに対して、密教の加持力というのは真理法則に基づいた個人能力を超えたエネルギーであるということです。
したがって、念力パワーを無闇に使いすぎると、その人は疲労感や脱力感を覚えるはずです。場合によっては、念力の対象からマイナスの波動を受けて、病気になったりするでしょう。信心深い人が、愛する人のために必死になって祈るときも念力が発せられますが、その願いが純真で無心であれば、願いはよく叶います。逆に邪心な念力は、その本人が災いをこうむります。この世の中、宇宙の法則真理とはそういうものなのです。
一方、密教の加持力は、修法に基づいて禅定のなかで無心に祈るものですから、精神的にも肉体的にも力むことは全くありません。疲労感や脱力感を覚えることはないし、むしろその後は爽やかです。ただ、長い時間座って祈るので腰に負担がきたのか、わたしは一時期、腰痛に悩まされたことがありますが。座布団の微妙な硬さと高さが大事ということを思い知らされた!
加持力というものについて、わたしはよくこんな例え話をします。
満月の夜、月の光がさざ波ひとつない池の水に写っている。あなたは今、池の水の月を見ていると想像してください。この池水の月の光が「加」であり、池の月光を見ているあなたが「持」です。そして、祈祷者は満月(真理法則)を映しだす池の水にあたります。あなたが、池に映る月を心から美しいと感じて月光と一体になったような安らぎを感じたとき、加持力がはたらくのです。これが加持感応です。
加持の依頼者が、自分の愛する人(病者)のために加持を頼んでくることも多いのですが、わたしは、病者の住所と名前、生年月日、病名を聞くだけです。その場合、わたしの加持を受ける病者は、水面の月を見ていないことになります。それでもその病者に加持力がはたらくのはなぜなのでしょうか。
その疑問に対する応えとしては、こう繰り返すほかないのです。
六大無碍にして常に瑜伽なり
四種曼荼各々離れず
三密加持すれば速疾に顕る
重重帝網なるを即身と名づく
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