「弘法大師聖語撰抄 上巻」より  和田仙心

 空海のことば 1

その昔、中国で、ある大工さんが寺から流れる読経の声を聞いて、突然僧侶になる決心をしたということです。その大工さんは歴史的にも有名な高僧になったそうですが、このようなエピソードが物語るのは、特別な知識もない一介の大工にも、読経の意味が理解できたということです。

しかし、わが国ではお経を聞いてその意味を知るなんてことはまったくありえません。なぜなら、サンスクリット語やパーリ語の経典が中国語に翻訳され、日本人にとっては大変難しい言葉になっているからです。そのため文字も読めない一介の庶民には、お経はチンプンカンプン、ムニャムニヤという摩訶不思議な世界になってしまったのです。

2500年前のお釈迦さんの時代、お釈迦さんはそんなに難しい言葉で説いていたのでしょうか。そんなことは絶対ないのです。しかし、日本の真言密教の開祖、空海はとてつもない学識をもっておられた方ですから、現代人の我々にとってはその言葉は非常に難解です。そのかわり空海は、いろはのかな文字を創ったのでしょうか。

ただし高等な言葉も訳してみれば、そんなに難しいことを語っているわけではないのです。空海の言葉は、撰訳者・中川善教師によって現代語に訳され、『弘法大師聖語撰抄』(高野山出版)として蘇りました。発行は平成6年11月ですから、まだ数年前のことです。

密教が21世紀の宗教として現代に蘇るためにも、できるだけ分かりやすい現代語訳が必要だと、私は常々考えています。これから本書の中から紹介する空海の言葉は、あえて私の解説など必要としないほど分かりやすいものですが、必要に応じて多少の説明・解説を附しておきます。どうか、手帳の隅にでもメモをして、空海の言葉そのものを繰り返し味わってください。

日が出て月が没し、油が尽きて燈が消えるのは、避けることの出来ない事実である。修行を積んだ菩薩も 何時迄もこの世にいられず、仏様も救済の為にこの世に出られた仮のお姿に、入滅を示されるのである。人間がどうして何時までも生き永らえることが出来るであろうか

いくら修行を積んだ菩薩や仏様でもやがて姿を消していくのだから、人間がいつまでもこの世に存えることなど できない。これは文字どおりの意味ですが、ではなぜ人は死ぬまで修行を積まなくてはならないのでしょうか。その答えが、次の言葉です。

人はそのからだの中に、本来清らかな仏たるべき性質を備えている。
仏への道は遠くない。唯、心の持ち方、考え方を変えればよいのである。
あらゆる存在は心の認識より始まる。心を離れて万有は存在しない。

高い山の頂上に登ることをとてつもない苦行と感じる人もいれば、「そこに山があるから登る」と、喜び勇んで登る人もいます。エレベータに慣れた人は、ちょっとした階段さえ苦痛のタネになります。修行を喜びとするか、苦しみとするかもその人の心次第、考え方次第ということです。自分のからだの中に本来清らかな仏性があると思える人は、厳しいこの世の生業も、楽しみと感ずることができるわけです。

阿字観の瞑想をたゆみなく続けていくことが、仏の通るべき道として思えるようになったら、それは特別な修行でもないのです。生かしていただいているから修行もさせていただける。また、生きているということは「呼吸をしている」ということです。その呼吸を日々の瞑想によって深めていくと 体調もよくなり、ずいぶん楽になります。

空海のことば2→